2007年11月01日

石見銀山 (いわみぎんざん) その3

昨日に引き続き「石見銀山その3」をお伝えします。

石見銀山の世界遺産登録

日本政府は「石見銀山は東西文明交流に影響を与え、自然と調和している、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指しました。

そして、2006年にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出しました。

2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議が、遺跡の普遍的価値の証明が不十分であるとして「石見銀山は登録延期が妥当」と勧告しました。


そこで、日本政府や島根県、大田市は、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した鉱山」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開しました。

この結果、「21世紀が求めている環境への配慮」 (銀山開発で伐採した分だけ植栽していたことなど、自然に対する配慮) がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、世界遺産としての登録が満場一致で正式に決定されました。

日本の世界遺産登録としては14件目です。
文化遺産としては11件目、産業遺跡としては日本国内初の登録となります。


登録対象

銀鉱山跡と鉱山町

銀山柵内
代官所跡
矢滝城跡
矢筈城跡
石見城跡
大森銀山伝統的重要建造物群保存地区
宮ノ前地区
重要文化財 熊谷家住宅
羅漢寺五百羅漢
佐毘売山神社

石見銀山街道

鞆ヶ浦道
温泉津沖泊道

港と港町

鞆ヶ浦
沖泊
温泉津伝統的重要建造物群保存地区

ニックネーム kazu-yamasaki at 09:30| Comment(44) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月31日

石見銀山 (いわみぎんざん) その2

昨日に引き続き「石見銀山その2」をお伝えします。

徳川幕府直轄領

西軍についていた毛利氏は関ヶ原の戦いで敗れたため、毛利氏の管理下にあった石見銀山も、徳川幕府に献上することになり、毛利家もお家の取り潰しを免れました。

徳川家康は初代銀山奉行として大久保長安を任命しました。
長安は石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなりました。

当初、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていました。

しかし、冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森〜粕淵〜九日市(美郷町)〜三次〜甲山〜御調〜尾道)を整備し、尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送するようにしました。

この輸送は幕末まで続きました。

石見銀山の終末

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えましたが、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期にはほとんど産出しなくなりました。

幕末には毛利氏の直轄であったで長州藩が一帯を占領しています。
この時、長州藩は祝杯を挙げたといわれています。

1887年(明治19年)からは大阪の藤田組により再開発の試みが続けられましたが、1923年(大正12年)には休山するに至りました。

その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みましたが、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となりました。。

石見銀山の公害

銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われましたが、その際に鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症しました。

鉛には発がん性もあると考えられています。
坑道内の出水・高温多湿や煤塵などの被害で、当時の鉱夫は短命であったといわれます。

そのため、大森地内に各宗派の寺院が多数あります。
古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられています。

ニックネーム kazu-yamasaki at 15:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月30日

石見銀山 (いわみぎんざん) その1

皆さんご存知のように石見銀山(地元では大森銀山とも呼ばれています)は、2007年にユネスコ世界遺産への登録が決定されました。

私も、世界遺産に登録される以前に2回行ったことがあります。
昔のたたずまいを残した町並みは、設計士という職業柄、心に残るものがありました。

銀を採掘するための坑道を間歩といいます。 石見銀山に500ヶ所あまり存在する間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみです。 今、急ピッチでもう一ヶ所復元に向けて作業が続いています。

石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山でした。
鉱脈は、現在の島根県大田市大森町を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていました。

最盛期の人口は20万人にもなり、当時の江戸の人口が40万人だったことを考えると、いかに重要視されていた地域であったかがうかがわれます

銀山の開発

鎌倉時代末期に銀が出たという説もありますが、本格的に銀発掘を始めたのは博多の商人、神谷寿貞です。

海上から山が光るのを見た (このことは、地元で語り継がれてきたものです) 神谷は、領主大内氏の支援と出雲の銅山主・三島の協力を得て1526年、銀峯山の中腹で銀を採掘しました。

1530年神谷は、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功しました。
この技術でより効率的に銀を得られるようになり、日本における銀産出に大きな貢献をすることになります。

灰吹法が開発される前は、鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引されていました。

(※ 灰吹法 : 17世紀初頭、銀精錬のハイテクである灰吹法の技術革新があり、塩を使うことで銀の大量生産につながった可能性があるそうです)

銀山の争奪

1537年、出雲の尼子氏が石見に侵攻、大内氏より銀山を奪いました。

1539年、大内氏が奪還しました。

1541年、尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領しました。

その後、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、最終的に毛利氏が勝利を収めました。

1584年、毛利氏が豊臣秀吉に服属すると、銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられました。

商業への影響

石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていました。

このため、精錬加工された銀(『丁銀』)は基本通貨として広く国内(主に銀本位制の西日本)で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えました。

当時の銀産出量は世界全体の3分の1に達し、現ボリビアのセロ・リコ(世界遺産)と並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になりました。

特にスペイン国王は、イスラム圏から入手した地図を大量に持っており、また独自に地図を作成していました。

この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきました。

銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も指摘されています。

ニックネーム kazu-yamasaki at 21:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

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